入学式

桜並木 
二人目の入学式です

何とか拾ってくれる大学があった~ って感じで

一人目はちょうど3年前 早いな~

入学式は、東京国際フォーラム

 
自宅前 「そんなところに金かけるな~」 と辛口

夫婦でOBだから許されるでしょ…(^◇^;)

桜舞い散る遊歩道で見送りです

「二人とも通学で助かった~」 親の本音です

貸したバック汚すなよ

五十路

昨日、五十路の坂にさしかかりました。

この坂って、上りですか、下りですか? ねぇ

今朝、ポストの朝刊に紛れて一通の封書が

年子の姉からでした。

メッセージと4億円の可能性が入ってました。
       バラなので…

 
ローンの完済、AMG へ乗り換え、世界一周クルーズの予約、別荘の土地探し…

8月からはきっと忙しいだろうな~

見学に来ていただきました

東浦和在住のM様ご夫妻が
我が家を見学に来てくれました。

某鉄骨HMかRC住宅か、見積段階での検討中で

HMから言われた
「RC住宅はそんな価格では建ちません」
という言葉に困惑されていた様子です。

店舗・2階・3階・屋上と〔部屋+散らかし様〕を
惜しげもなく見ていただきました。

どんなにきれいな家を建てても、片づけなければゴミ屋敷ですね (^^;)

色々比較検討されて、満足できるお家を建てて下さい。
HMの言うことは全く当てになりませんので…

雨の中津川

 
2月に店舗の自動ドア1枚ガラスに
ガラスコーティングをしました。

左右のFIXは複層ガラスの《トステムシンフォニー》
メーカーにUV効果を聞いたところ40%カットでした。

なのでFIXはUV対策をしなくて大丈夫
と、踏んでましたが、全て解決とは行かず。

 
何しろ日照時間が長い当店
どうしても商品の退色が気になり

「出費がかさむな~」と、清水の舞台を飛び降り

た、つもりで再度ECOPをお願いしました。

施工時間は2時間弱ぐらいですが塗料が乾くまで少々時間が

ECOPのお兄さんにちょっと手伝っていただき、
X’mas イルミネーションも飾り終えました。

とりあえず午後は時間ができたので
美術館でも散歩してこようかと…

 
で、ふらっと出かけた深川の街

昨日も『出没!アド街ック天国』で
深川・住吉》が放送されていましたね。

次回は、11月19日は《埼玉・草加》だって
せんべい以外、何を取材するのかね~

首都高の箱崎ジャンクション経由、深川まで30分

遅い昼食を《深川めし》のお店で…

お店を出たらすぐ隣に手書きの看板
【差し上げます。包みますので声をかけてください。】

「いい急須、これ無料だって」
と、箱から取り出して眺めている(某)ご婦人
お店の中から女性が出てこられて

“ 本当に無料です ” なんて言われても
商人としてはタダではもらってこられませんね

 
“ほんの気持ちですが…” と300円をお渡しすると
「ありがとう!アイスを買って食べよう」と、
バレエショップ〔グリシコ〕の気さくな奥様でした。

腹ごしらえと、お土産も買った(もらった)ところで
目的だったのは『深川江戸資料館

江戸の庶民の生活ぶりが生活用品とともに
再現されています。

館内は、猫が「ニャーニャー」してたり
雨が「ザーザー」降ったりの演出があります。

横の部屋ではでお茶漬けのカードで見たことのある
期間限定で展示されていた 《歌川広重》

何気な~く、本物かもわからず見学していました。

そしたら〔雨の中津川〕があるじゃないですか。
たしか《開運!なんでも鑑定団》で高額になっていた

“ひょっとしてこれ本物?”
会場内にいるスタッフの方に聞いてみました。

なんと、鑑定団に出品した望月さんの
コレクション展示だったのです。

1,500万円の値が付いた超お宝です。

写真撮影は禁止でしたがとっても良い物を
見させていただき感激してしまいました。

しかし、本来なら〔雨の中津川〕に人が溜まっていてもいいと思うのに、誰も群がっていませんでした。

みんな知らないで見ていたんじゃないかな~

気分がよかったので販売されていた
カラー図版を買いました。

せめてもの望月さんへのお礼ですね

下記は、展示場にて配られていた説明書です。
興味のある方は27日までですのでぜひお出かけください。

遠方で、右のポスターだけでも欲しい方はご連絡ください。
先着2名様にプレゼントします。  もらい物ですが…(^^ゞ

深川江戸資料館特別展

広重・英泉『木曽街道六十九次』

はじめに

 「木曽海(街)道六拾九次」は、はじめ渓斎英泉が絵師を務め、後に歌川広重が引き継いで完成した街道絵で、中山道の70景を描いた全71点の大作です。
 作品の舞台である中山道は、江戸と京都を結ぶ内陸の道です。東海道が太平洋沿岸をたどって行くのに対して、中山道はいくつもの険しい峠を越えて行く道でした。
 「木曽街(海)道六拾九次」は、英泉と広重という二人の絵師による作品であるだけでなく、三つの版元が関わっていること、さらに広重が中山道を旅した時のスケッチ帖が現存することなど、謎も多く興味深い作品です。また、世界的にも残存致が少なく大変貴重な「雨の中津川」が含まれていることでも知られています。
 本展示では、英泉と広重の描いた作品とともに日本橋から大津までの中山道をたどります。そこには山あいの道らしい色彩、景色や風物、人や馬の姿をみることができるでしょう。
 最後になりましたが、本展示を開催するにあたり、望月義也氏には貴重なコレクションをご出品いただきました。記して心よりお礼申し上げます。

「木曽海(街)道六拾九次」とは

 「木曽海(街)道六拾九次」は中山道を主題とした街道絵である。英泉を絵師として、1835年(天保6年)頃から刊行しはじめ、24図で中断。その後、広重が引継ぎ、全70景71図が完成している。
 広重の街道物の名所絵として「東海道五拾三次」とともに取り上げられることが多く、風景画の傑作「洗馬」や残存数の希少な「(雨の)中津川」など、いくつかの貴重な作品も含まれている。「東海道五拾三次」が青を基調としているのに対し、山間部の峠を描いた作品らしく緑や茶の色調が特徴的な作品である。
 「木曽海(街)道六拾九次」は「東海道五拾三次」と並ぶ広重の代表作であるにも関わらず、全作品が揃いで展示・出版されることはあまりなかった。そこには、作品成立時の状況が複雑で、初摺(絵師の制件意図が反映されている)の確定が難しいといった事情などがあったようである。実際、絵師が二人であるというだけでなく、保永堂、錦樹堂、錦橋堂という三つの版元が関わるなど、シリーズ中でいくつもの変転があり、後摺作品も錯綜している。
 こうした成立事情をめぐる問題の他に、「木曽海(街)道六拾九次」を考える上で重要視されてきたのが、広重が中山道その他を旅した時のスケッチ帖の存在である。スケッチ帖は、現在、大英博物館に所蔵されている。スケッチ帖の検証は、「木曽海(街)道六拾九次」との関係を含め、広重の作画姿勢や名所絵制作の背景を知る上でも大変興味深い課題であると言える。「木曽海(街)道六拾九次」は、美術史や文化史などにおいて今後更なる研究が期待される作品の一つといえるであろう。

歌川広重とは

 広重は、寛政9年(1797)、定火消同心の安藤源右衛門の子として、江戸城すぐそばの八代洲河岸に生まれた。幼名は徳太郎、のちに鉄蔵、また重石衛門、徳兵衛と伝えている。安藤広重の名で呼ばれることのあるのは、生家の名字、安藤による。
 幼少の頃から絵が得意であった広重は、15歳頃に、火消同心の本業の傍ら、歌川豊広に入門した。豊広は、人気・実力ともに随一だった豊国の弟子にあたる。入門後の広重は、師の号「豊広」の「広」と本名「重右衛門」の「重」から一字ずつとって「広重」の画号を許される。師の豊広は、静かな画趣を特色とする上品な美人画などを描いていたが、名所絵版画も手がけており、広重はそうした師の画風に影響を受けながら学んでいったものと思われる。
 文政6年(1823)、27歳の時に火消同心職を安藤伸治郎に譲った後は、専業の画工としての道を歩んだ。文政13年、斎号を「一遊斎」から「一幽斎」と改めた広重は、次第に名所絵風の作品を発表するようになる。その後広重は、斎号を一立斎と改め、天保4年(1834)には出世作となる「東海道五拾三次」、さらに「木曽海(街)道六拾九次」、「名所江戸百景」など、数々の名作を世に送り出し、新たな名所絵の境地を模索し続けた。安政5年(1858)病没した。

渓斎英泉とは

 寛政2年(1790)、江戸市中星ヶ岡の下級武士の家に生まれる。本姓は松本だが、父・政兵衛が池田姓に復したため池田を名乗る。本名は義信、通称を善次郎。12歳から狩野典信の弟子狩野自桂斎のもとで画技を学んだとされている。15歳、仕官するもののうまくいかず、狂言作者・篠田金治(後の二世並木五瓶)に師事した。その後、深谷宿(中山道)の菊川英二の家に寄寓し、その子である浮世絵師・菊川英山の弟子となり、本格的に画業に取り組み始める。英山は、喜多川歌麿の晩年の作風に近い美人画を描いており、英泉の初期の作品にはその影響が見られる。
 文化未年から、英泉の落款を使うようになり、合草や酒落本・人情本・読本・狂歌本の挿絵を描く。文政年間に入り、次第に英泉独特の美人画を発表するようになる。大顔で胴長、猫背気味で妖艶で濃艶な女性像を描き、中でもべ口藍を用いた藍摺絵の花魁図は衝撃的であったと思われる。
 美人画や春画で有名になった英泉だが、名所絵にも佳作とされる作品がある。「木曽海(街)道六拾九次」もその一つである。英泉は、多彩な画風で、美人画、武者絵、役者絵、名所絵など幅の広い作品があるにものの、残念ながらいわゆる大絵師とされることはない。「木曽海(街)道六拾九次」も途中降板し、広重に譲っている。とはいえ「木曽海(街)道六拾九次」は、英泉と広重、それぞれの個性が発揮された作品として鑑賞することができる作品と言えよう。
 晩年は、戯作を執筆、考証随筆も手がけた。嘉永元年(1848)病没。

中山道とは

 中山道とは、江戸と京都を結ぶ道で、古代の官道である東山道を基に、江戸時代に成立した。江戸幕府は、正徳6年(1716)に「東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と中事に候」と定めている。道中に、大変険しい木曽路があることから「木曽街道」と呼ばれることもある。
 街道は、武蔵、上野、信濃、美濃、近江の各国にまたがり、距離は135里(約533km)、宿駅は69次あった。また上野国坂本宿と信濃国軽井沢宿との間、信濃国の宮ノ越宿と福島宿の間には、それぞれ碓氷関所と福島関所が設置されていた。
 同じく江戸と京都を結ぷ道である東海道は126里(約492km)、53次であり、距離・宿駅数ともに中山道の方が上回っていた。その一方で、東海道は川留めのため、時には1週間以上も足止めされることがあり、中山道の方が計画的な旅行に適しており、また、川越がないことから女性に好まれた。
 中山道を往来した人々には、加賀藩前田家をはじめとする参勤交代、また街道に隣接する蚕糸・織物や麻などの産地と取引する商人、それらの物資を運搬する人々などがあった。さらには、徳川将軍の嫡子が皇族や摂家の姫君を迎える際の道としても使用された。
 東海道とは道中の景色も名物も、行き来する人も異なる中山道であるが、広重と英泉はそれらをどのように描いたのか、「木曽海(街)道六拾九次」の作品を通してご覧下いただきたい。

ミス・インターナショナル

 
三男が通っている養護学校のクラスメイト『菅原』さん

そのお姉さんが、2012年のミス・インターナショナル
ファイナルリストに選ばれました。

菅原 彩香』さん 高校生 18歳 東京出身
彼女の ↑ ブログです!

 

スレンダーな 178cm 57kg
 B84 W60 H87

街を歩いてるだけで
モデルのスカウトがよってきます。

もちろん日本代表を目指しています
いや、世界かな…

いかがでしょう?

って、ひとさまの娘ですが…(^^ゞ

 
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日本代表になったら、ウチの店の
看板になってもらお~っと

エステとダイエットの…(^m^ )